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2003年11月11日(火)〜12月22日(月) 品川・キャノンサロンS (会期完了) |
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佐渡の思い出
佐渡ヶ島の暮らしのリズムは、お盆や祭りを軸としながら四季を通じて展開している。佐渡には、今日ではもはや失われつつある純日本的な村々の風情が残されている。祭りは季節の節目に行われ、祭りが新しい季節を佐渡に運んでくる。 私が初めて佐渡を訪れたのは1967年の小木祭り(オギマツリ)の日だった。その夜は、深い透明な空に浮かんだ満月が、静かな小木湾に映っていた。 佐渡博物館の薄暗い廊下の片隅に、近藤福雄が1917年から1945年まで、暗箱カメラで撮影した8800枚の膨大なガラス乾板写真が眠っていた。その内、5500枚をプリントして「佐渡万華鏡」にまとめた。今回、キヤノンサロンSでは、コレクションとして収蔵された写真と、デジタルプリントによって新たな息吹を込められた「佐渡島」を展示することになった。改めて映像記録の大切さを考えさせれる企画となり、私にとって有意義なものとなった。
佐渡の古い言い伝えでは、月のものがある間の女性は、梅干にさわると梅干が腐ってしまうといわれる。また、厄年のものは新しい手ぬぐいで全身を拭くまねごとをして、厄をふきとる。そしてこの手ぬぐいに、年の数だけの金を包み、村の四辻に落としておいたという。さらに、「厄年には旅に出るな」、「盆、彼岸には洗濯するな」、「飲むなら飯の前、死ぬなら盆の前」、「盆の雨は虫になり、蝉が鳴くと晴れになる」などという。 世阿弥(室町前期の能役者、謡曲作者。卓絶した曲、能楽論を多く残した)が佐渡に流されたのは、永亨年間(1429-1441)のことだが、この由縁の地に能楽が隆盛を極めるに至ったのは、能役者あがりの佐渡奉行・大久保長安(1545-1613)以降のことになる。村々の神社には、現在でも54棟もの能舞台が残るが、その幾つかは自然に朽ち果てるにまかせている。 むかし一人暮らしの蕎麦屋の老人が、猫をわが子のように可愛がっていた。家運が傾いた主人に恩返しをするため、猫は遊女に化けて店の前に立った。遊女は「おけい」と名乗り、哀調を帯びた節回しで「おけい節」を歌った。彼女の美声はたちまち評判を呼び、蕎麦屋は以前の繁盛を取り戻した。この地方の代表的な民謡「佐渡おけさ」は、今日、日本中の人々に親しまれている。
近藤福雄は佐渡・金沢村の中農の家で生まれた。金沢高等小学校卒業後、大正 6 年、18才の時から暗箱カメラを用いたガラス乾板写真で佐渡島の風景を写し始める。 当時、大正デモクラシー時代から日中・太平洋戦争へと、世相は大きく激動した。こうした時の流れに人々の暮らしも変貌していた。 近藤福雄は、新しいものにいち早くとびついた。当時、写真道楽は最新最高の贅沢だった。写真三昧のために、先祖伝来の田畑のほとんどを売り尽くしてしまうほどのこりようだった。 島に有名人が来る情報を聞くと、率先して案内役を買い、港に迎えに行く。柳田国男、尾崎行雄、渋沢秀雄、吉屋信子、菊池寛ら多くの文人・名士が近藤の撮影したガラス乾板に写っている。 この時期は佐渡島観光の開花期でもあった。佐渡観光界の名物男として有名になった近藤福雄が、酒は一滴も飲めないのに芸者たちからとても好かれたのは、彼のもたらす情報の新しさと人柄の明るさだった。
近藤は佐渡山岳会の創立にも参加。牧野富太郎博士の植物学や、また考古学にも興味を示した。とくに徳富蘇峰との交際が大きく影響したようだ。近藤が残したガラス乾板 8, 800 枚の約半分は、遺跡からの出土品や高山植物を撮影したものである。 奇人・近藤福雄は1957年 (昭和32年) 、帰宅途中に倒れた。三脚にカメラを付けたまま担いでいたそうだ。膨大なガラス乾板のうえに近藤が残した佐渡の原風景は、「過去からのメッセージ」として、今日、資料としも貴重な文化財産といえよう。 富山治夫
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Tomiyama
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